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运松翁/分析考据

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运松翁
運松(うんしょう)

姓名

出典为 鷹取運松庵

河童家伝の金創薬

さて此からが本論なり。今若し河童を以て一種の獣類とするならば、正しく前に掲げし伝説の一例と見るべき昔話あり。即ち非常に効能の大なる金創薬を河童より伝授せられたりと云う多くの物語是なり。
 自分12~3歳の頃世に公にせられし書物に、石川鴻斎翁の『夜竈鬼譚(やそうきだん)』と云う著あり。自分の耳を悦ばせし最初の話は此の文集の中に在りき。奇抜なる挿画ありし事を記憶す。
 袴を著けたる立派なる若衆が奥方の前に低頭して一本の手を頂戴する図にして、其の手は恰(あたか)も天竺徳兵衛が蝦蟇(がま)の手とよく似たり。此の少年こそは即ち河童の姿を変えたる者にして、奥方の為に斬り取られたる自分の片手を返却して貰う処なり。たしか九州は柳河の城下に於て、河童或る強勇なる奥様に無礼を働きて手を斫(き)らる。泣いて其の罪を謝するが故に、憐愍を以て其の手を返し与えたるに、礼物に川魚を持参せりと云う話なりしかと思う。
 此の話と同じ話の異伝かとおぼしきもの、少なくも九州に二つあり。
 其の一は『博多細記』に見ゆ。筑前黒田家の家臣に鷹取運松庵と云う医師あり。妻は四代目の三宅角助が娘、美婦にして胆力あり。或る夜厠に入りしに物陰より手を延ばして悪戯をせんとする者あり。次の夜短刀を懐にして行き矢庭に其の手を捉えて之を切り放し、主人に仔細を告げて之を燈下に検するに、長さは八寸ばかりにして指に水掻あり、苔の如く毛生いて粘りあるは、正しく『本草編目』にある所の水虎の手なりと珍重すること大方ならず。
 然るに其の夜も深更に及びて、夫婦が寝ねたる窓に近く来たり、打ち歎きたる声にて頻に訴うる者あり。私不調法の段は謝り入る、何とぞ其の手を御返し下されと申す。河童などの分類を以て武士の妻女に慮外するさえあるに、手を返せとは長袖と侮りたるか、成らぬ成さぬと追い返す。斯くすること三夜に及び、今は絶々に泣き沈みて憫みて乞いければ、汝猶我を騙かさんとするか、我は外治の医家なるぞ。冷え切ったる手足を取り戻して何にせんと言うぞと罵る。御疑いは御尤もなれども、人間の療治とは事かわり、成程手を継ぐ法の候なり。三日の内に継ぎさえすれば、仮令前ほどには自由ならずとも、ことの外残りの腕の力になり候。偏に御慈悲と涙をこぼす。此の時運松庵も稍(やや)合点し、然らば其の薬法を我に伝授せよ、腕は返し与うべしと云えば、河童是非に及ばずとて障子越しに一々薬法を語りて書き留めさせ、片手を貰いて罷り還り、更に夜明けて見れば大なる鯰のまだ生きたるを、庭前の手洗鉢の辺にさし置きたりしは、誠に律義なりける話なり。
 次に『笈埃随筆』の中には、肥前諌早在の兵揃村天満宮の神官渋江久太夫の家の歴史として此の話を伝えたり。事の顛末は全く博多の鷹取氏のと同じく、唯彼は医師なるに反して此は本草にも縁なき普通の神主なれども、利害の打算と外向的手腕とに於ては甲乙あることなく、有利なる交換条件を以て安々と河童手継の秘法を聞き取り、永く之を一子相伝の家宝として、近国の怪我人に河童薬の恩恵を施したりと云えり。
 右三書の伝うる所、果して何れを真とすべきかを知らざるも、要するに渋江氏は河童と浅からざる縁故あり。肥後にも河童の退治を職とする一箇の渋江氏ありき。今の菊地神社の渋江公木氏など或は其の沿革を承知せらるるならんか。但し自分の知る限りに於ては、肥前には兵揃と云う村の名無し。恐らくは亦伝聞の誤りならん。
 九州の南半に於ては河童の別名を水神(すいじん)と謂い或は又「ヒョウスエ」と謂う[サヘヅリ草]。狩野探幽の筆と称する百化物の画巻の中にも、「ヒョウスエ」と云う物あり。太宰府天満宮の末社の一に、「ヒョウスベ」の宮あり。此は俗に謂う河太郎のことなりと称す[南蘭草下]。
 昔菅公が筑紫の配処にて詠まれたりと云う歌に
「いにしへの約束せしを忘れなよ立ち男氏は菅原」
 と云う一首あり[和漢三才図会四十]。此の歌は僅なる変更を以て又左の如くも伝えらる[和漢三才図会八十]。
「ひやうすへに約束せしを忘れなよ川立ち男我も菅原」
 之を以て観れば、「ヒョウスエ」は本来河童のことには非ずして、化物退治を以て千問としたる神なりしかと思わる。諌早附近の渋江氏が同じく天満宮の祠官なりしこと、及び一説には長崎の辺に住する渋江文太夫なる者、能く水虎を治し護符を出す、河を渉る者之を携え行けば害なしと云うい、或は若者等海に小石を投じて戯れとせしを怒り、河童此の渋江氏に託して其の憤りを述べたりと云うことをも考うれば、村の名を兵揃と誤り伝えたる仔細は必ずしも想像に難からず。而して右の一首は、此の男は菅原氏の一族の者なれば川に立ちても害を加うて、拙きながらによく要領を得、河童研究上有力なる一史料なり。