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东方外来韦编/2019 Spring!/幻想之源②

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  • 该内容于杂志中页数:020-021

幻想之源②

Fragment of Phantasy


東方Projectにちりばめられた、様々な幻想の欠片を覗き見るコラム。
2本目は、何作かにわたって登場する複数のネタについて
その根本的な部分からたどっていきます。
文/塩田信之
本栏目将窥视星罗棋布于东方Project里的,各式各样的幻想碎片。
第二篇会追本溯源,探究那些
横跨多作出现的多个话题。
文/盐田信之
あらゆるものに〝神性〟は宿る!?
万物内都寄宿着“神性”吗!?
 八百万の神をいただく日本人にとっては特に不思議なことではないのですが、長い年月を経たものは生物無生物を問わず魂あるいは霊などの類を宿すようになるという考え方があります。例えば樹木や岩、そして山そのものを神あるいは神を宿した「ご神体」と崇めることは日本に限らず人間が文明を獲得する前から行ってきたと思われます。暖かい光で世界を照らしてくれる太陽、移り変わる季節を運び時に吹きすさび荒れる風、雨を降らし洪水を引き起こすこともある雷などさまざまな自然現象を恐れ神として祀り上げることは世界中で往々にしてありました。
 历经长久年月的物体,不管是生物还是非生物,都会被魂魄或者灵体之类的给寄宿,这对于信奉八百万神的日本人而言并非什么不可思议的事。例如有将树木或者岩石,甚至山本身当作神或者曾经有神寄宿于其中的「御神体」进行崇拜,这样的事被认为不仅仅在日本有发生,而是从人类获得文明前起就一直发生着。用温暖的光照耀世界的太阳,带来四季变换的狂风,带来降水、引发洪水的雷电,敬畏各种各样的自然现象,将它们当作神明来祭拜,这在全世界都不罕见。
 もっとも、自然物そのものを神と崇める習慣は文明が発達するに従って衰退していく傾向があります。それは信仰の根源に「畏れ」があったからで、衣服や家屋が発達していけば雨風はしのぎやすくなりますし、治水灌漑が進んでいけば、水害を減らし農作物の育成に利用できるようになります。もちろん人間の手ではコントロールできない自然現象もたくさんあり続けますが、常日ごろから畏れる必要は減っていきますから、神としての存在感も薄れていくわけです。また、かつては山だったり巨木だったりした神々が、人間のような名前を持ち、絵や像などが造られることで人間に似た姿を獲得していきます。さらには「神話」によって人間と同じように生活したり、喜怒哀楽の感情を持つことがわかってくると、それらの神々が元々自然現象由来であったとしても、感情移入ができたり親近感を感じる「神様」に変わっていったのではないかと思います。
 不过,将自然物本身当作神明来崇拜的习惯,随着文明的发展,有着逐渐衰退的倾向。这是因为信仰的根源在于「畏惧」,然而在发展了衣服和住宅之后,风雨就容易被挺过,水利灌溉技术进步之后,水灾就能减少并被用于培育农作物。当然也有很多以人类之手尚无法驾驭且会一直存在下去的自然现象,但是由于平常畏惧它们的必要性不断减少,其作为神的存在感也会日益稀薄。另外,以往作为山和巨树而存在的神明,逐渐因为拥有了像人类的名字、通过绘画和雕像创作获得了和人类相似的姿态。进一步地,它们通过「神话」而像人类一样生活,变得拥有喜怒哀乐的感情,这样一来即使神明原本来源于自然现象,由于可以被共情,它们就变成了受人亲近的「神明」。
 日本の文明が形になり始めた時は、先進的な技術を持った恐らくは外来の人々が「倭」と呼ばれる国家を作って、「高天原からやってきた神々の子孫」として統治を始めました。最高神アマテラスは太陽を神格化した存在ですが、神話自体ずいぶん後にまとめれらたせいなのか、弟の乱暴狼藉に塞ぎ込んでしまったり、地上に降りて人間たちを支配する子孫を心配する母か祖母のようなイメージで描かれています。氾濫する河川のイメージが怪物のように描かれたとされるヤマタノオロチも、当初娘を生贄に差し出さねばならない怖ろしい存在だったのに、天下った神スサノオに退治されてしまいます。恐らくは自然現象を神格化した存在が多かった日本土着の神々(国津神)は、高天原からやってきた天津神に制圧されたり懐柔されていきます。軍門に下らなかった神々は「まつろわぬもの」として鬼や妖怪の類に貶められていったわけです。自然現象に対する畏敬の念はまったく失われてしまったわけではありませんし、神社には「ご神体」として変わらず大切にされてはいましたが、聖徳太子の時代から日本で流行していった仏教の勢いには勝てませんでした。
 在日本文明开始成形的时候,拥有先进技术的疑似外来者创建了称为「倭」的国家,作为「从高天原而来的众神后代」而开始了统治。最高神天照大神是把太阳神格化的存在,可能由于其神话是很久以后才整理而成,因而被描绘成会因弟弟的胡作非为而心情低落,会担心降临到地上统治人类的后代的这样一个母亲或祖母般的形象。作为河川泛滥的印象而被描绘成怪物的八岐大蛇,当初也是必须对其献上作为活祭品的女儿的恐怖存在,却被下凡的神明素盏鸣尊降服。恐怕很多作为自然现象的神格化的日本土著众神(国津神),都逐渐被从高天原而来的天津神所镇压或怀柔。不投降的众神则作为「不顺从者」被贬为鬼和妖怪之类。对自然现象的敬畏之念并没有完全消失,神社仍旧看重「御神体」,但无法战胜从圣德太子的时代开始在日本流行的佛教之势。
妖怪・付喪神としての復権
作为妖怪和付丧神的复权
 古い道具などに霊や命が宿る妖怪が「付喪神」として知られるようになるのは、室町時代に作られた『付喪神絵巻』と通称される絵巻物からと考えられています。その後『百鬼夜行絵巻』(室町末期以降)に妖怪たちの一団に含めて描かれ、妖怪の種類としてもバリエーションが増していったようです。かつての自然現象を神として崇めたものとは大きく異なり、人間に悪さをしても脅かしたりイタズラをする程度の、滑稽でどこかかわいらしいヨーロッパの妖精伝説に近い印象になりました。人間に飼われた猫が長い年月を生きると、猫又などの妖怪に変化するという考え方とも共通する部分があります。
 一般认为,让将灵魂或生命寄宿于陈旧器具的妖怪作为「付丧神」而广为人知的,是在室町时代创作的俗称《付丧神绘卷》的画卷。后来在《百鬼夜行绘卷》(室町末期之后)里,在画妖怪群体时就把它包含在内,将它当作妖怪的一种,丰富了妖怪的种类。和以往将自然现象作为神明崇拜截然不同,它们即使对人类作恶也只是吓唬人这样恶作剧般的程度,滑稽又多少有点可爱,感觉和欧洲的妖精传说相近。被人类饲养的猫在活很久之后,就会变化成猫又这种妖怪,付丧神和这种说法有共通的部分。
 ともあれ、『百鬼夜行絵巻』以降、付喪神は妖怪画のいちジャンルとして好んで描かれるようになりますが、現代に伝わる付喪神のイメージの多くは江戸中期の浮世絵師である鳥山石燕によるものです。『画図百鬼夜行』(1776年)や『今昔画図続百鬼』(1779年)、『今昔百鬼拾遺』(1784年)と妖怪画の版本を出して人気を博し、シリーズ的に最後の刊行となった『百器徒然袋』(1784年)がその名の通り器物などに関連した妖怪が多く含まれています。
 不管如何,在《百鬼夜行绘卷》以后,付丧神开始作为妖怪画的一类而受人喜爱、被描绘,大多流传至今的付丧神形象都是江户中期的浮世绘大师鸟山石燕所作。他创作出的《画图百鬼夜行》(1776年)、《今昔画图续百鬼》(1779年)、《今昔百鬼拾遗》(1784年)和妖怪画的刻本为其博得人气,系列中最后发行的《百器徒然袋》(1784年)也名副其实,包含了众多和器物相关的妖怪。
 多々良小傘や堀川雷鼓、九十九弁々・八橋と付喪神由来のキャラクターが多い東方シリーズですが、今回特に注目したい「秦こころ」は聖徳太子ともゆかりの深い付喪神です。そのルーツと考えられる妖怪画も、『百器徒然袋』に「面霊気」の名前で収録されています。そこには、聖徳太子のころに秦河勝がたくさん面を作り、それらがまるで生きているようだったのは河勝の巧みさのせいだろうといったことが書かれているのですが、最後に「夢に思った」と締めています。桟にかけられた神楽や能に使われる「翁面」と、床に並んだ鬼か達磨風の面が描かれた絵も、特に妖怪としての性が描かれているわけではありません。鳥山石燕にしてみれば、「秦河勝の作った面は霊性を感じるほど素晴らしい」と言いたかっただけかもしれません。なお「面霊気」図には太鼓も描かれていますから、堀川雷鼓に繋がるかもしれませんし、『百器徒然袋』には他にも九十九弁々に繋がる「琵琶牧々」と八橋に繋がる「琴古主」、多々羅小傘とはちょっとイメージが遠いけれど、「骨傘」という妖怪も登場します。
 东方系列里面有众多由付丧神而来的角色,如多多良小伞、堀川雷鼓、九十九弁弁和八桥,这次想特别关注的是「秦心」这个和圣德太子有着深厚因缘的付丧神。被认为是它的原型的妖怪画,以「面灵气」的名字被收录于《百器徒然袋》。在那里写着,在圣德太子那时候,秦河胜制作了大量面具,它们之所以栩栩如生是因为秦河胜的高超技术吧,最后以「于梦中思及此」结尾。画有挂在门梁上的,用在神乐和能剧里的「翁面」和并列在地板上的鬼和达摩风的面具,也没有描绘出特别像是妖怪的特性。从鸟山石燕的角度看,这可能是想表达「秦河胜制作的面具是能让人感受到灵性般的出色」吧。并且在「面灵气」的画里也绘有太鼓,堀川雷鼓可能和这个有关,在《百器徒然袋》里面还有和九十九弁弁相关的「琵琶牧牧」、和八桥相关的「琴古主」,以及和多多良小伞在造型上差得有点远的,名为「骨伞」的妖怪们。
謎多き秦河勝
充满谜团的秦河胜
 秦河勝の面については河勝の子孫とされる、南北朝から室町時代に活躍した猿楽師・世阿弥の『風姿花伝』に記されています。そこでは、聖徳太子が秦河勝に「神楽の真似をせよ」と言って自ら作った「六十六番の面」を与えたとあって、面を作ったのは聖徳太子だとされています。どちらが正しいのか気になるところですが、『日本書紀』には少年時代の聖徳太子が霊木から四天王像を作って髪飾りにしたとか、絵や造形の才能があったことが記されていますから、『風姿花伝』の方が正しいように思えます。また『日本書紀』には聖徳太子と秦河勝のやり取りが記されていますが、そこには聖徳太子のありがたい仏像をいただいて広隆寺を建てたとだけ書かれています。河勝は聖徳太子の右腕ともされた人物で、日本古代ミステリー好きなら耳にしたことがある「秦氏」の一員です。秦氏といえば、秦の始皇帝の子孫ともいわれる渡来氏族で、養蚕と機織を司っていたことでも知られており、『日本書紀』にも蚕との繋がりを示唆する記述があります。
 关于秦河胜的面具,记录在作为秦河胜的后人而活跃在南北朝到室町时代的猿乐师:世阿弥所著的《风姿花传》里。里面写着,圣德太子对秦河胜说「去模仿神乐吧」,并将自己制作的「六十六种面具」给了他,制作面具的人被认为是圣德太子。到底哪边是正确的说法令人在意,不过《日本书纪》里说少年时代的圣德太子用灵木制作了四天王像并用其装饰在头上,即他有绘画和雕刻的才能,因此我想正确的是《风姿花传》的说法。另外《日本书纪》里记录了圣德太子和秦河胜之间的交谈,写着秦河胜收下了圣德太子给的珍贵佛像后建立了广隆寺。秦河胜是作为圣德太子左膀右臂般的人物,是日本古代秘谈爱好者都曾耳闻的“秦氏”的一员。所谓秦氏,是指被认为是秦始皇后代的外来氏族,因主管养蚕和纺织而闻名,在《日本书纪》里也有暗示他们和蚕之间的关联的记述。
 聖徳太子の死後は太子の息子「山背皇子」を支持し続けましたが、蘇我入鹿によって皇子が自殺に追い込まれてしまい、河勝は播磨の地に逃げたとされています。この辺りは『日本書紀』に記録はないので『風姿花伝』が伝える内容となりますが、河勝は「うつほ舟」に乗って辿り着いたことになっていて、祟りをもたらしたため死後「大荒大明神」と呼んで祀られたといいます。「うつほ舟」といえば、「うつろ舟」とも呼ばれる赤子や女性、あるいは神が乗って流れ着いたという伝承が日本各地に残っていて、「実はUFOだったのではないか」などといわれたりもする謎の物体です。日本神話で出雲の地に流れ着いたスクナヒコナや、『旧約聖書』で産まれたばかりのモーセがパピルスのカゴに乗せて流されたことなど、神話・伝説のモチーフと共通したものとも言われています。実は河勝にも、氾濫した川の上流から流れてきた壺を割って出てきた赤子だったという伝説があります。
 秦河胜在圣德太子死后继续支持太子的儿子「山背皇子」,在苏我入鹿把皇子逼向自杀之后,秦河胜逃往播磨的地区。这方面在《日本书纪》里没有记录,因而采用《风姿花传》写的内容。秦河胜乘坐「空舟」终于到达了那里,由于带来了灾祸因而死后被称作「大荒大明神」而被祭祀。说到「空舟」,也可以读作「虚舟」,在日本各地都有留下的传说里,有说小孩、女性或神乘此舟漂流而来,它是身披「其实那会不会是UFO呢」这种说法的谜之物体。在日本神话里少彦名漂流到出云之地,在《旧约圣经》里摩西刚出生不久就乘着用莎草纸制作的筐子被流走,可以说这些神话和传说在母题上有所相通。其实还有传说,说秦河胜是从自泛滥的河川上流流下来的壶中破壶而出的孩子。
『風姿花伝』が伝える「能」の歴史
《风姿花传》所讲述的「能」的历史
 秦河勝の伝説については、現在よくいわれるようになった「聖徳太子は実はいなかった」が本当だった場合どうなるのかと心配になってしまいますが、『風姿花伝』には「能」がどのように始まったのかについても驚くべき歴史を伝えています。
 关于秦河胜的传说,虽然担心着如果现在流行的「圣德太子其实不存在」的说法是真的话它会怎么样,但是《风姿花传》在「能」是如何诞生的上讲述了令人震惊的历史。
 その始まりは、アマテラスが「岩戸隠れ」をして世界が闇に包まれた時に、芸能の女神アメノウズメが踊って外に導き出したことにより世界に光が戻った神話だといいます。『古事記』や『日本書紀』の記述によれば、乳房や下腹部を露わにしたエロティックな踊りを想像してしまうところですが、それを見た神々が大笑いをしたためにアマテラスも気になって外に出てきたわけですから、ユーモラスな踊りだったと考えられます。アメノウズメは「おたふく」や「おかめ」の面のルーツともされますし、当時の基準で「美女」であると同時にコメディエンヌでもあったと考えられます。アメノウズメはその後天孫降臨に同行し、現地の案内役となったサルタヒコと結婚します。子孫が巫女として祭祀を執り行う氏族「猿女君」の祖神となり、巫女舞を含む神楽を聖徳太子の命で行うことになった河勝が始めたのが、後に猿楽、そして「能」と呼ばれるようになる芸能だった、というわけです。
 它的开篇讲的是,在天照大神「藏进天岩户」导致世界被黑暗笼罩的时候,艺术女神天钿女命跳舞想把天照大神引出来让世界重现光明的这个神话。根据《古事记》和《日本书纪》的记载,可以想象这是露出乳房和下腹部的性感舞蹈,但是看到这些的众神哈哈大笑,天照大神也很在意,就到了外面,即这被认为是很幽默的舞蹈。天钿女命被认为是「阿龟」或「阿多福」面具的起源,以当时的基准她既是「美女」也同时是喜剧演员。天钿女命后来在天孙降临的时候也跟着过去,和负责当地向导的猿田彦结婚。她的后代是作为巫女执行祭祀的氏族「猿女君」,天钿女命是他们的祖神,后来秦河胜执行圣德太子的命令,开始举行包含巫女舞的神乐,它后来成为猿乐,再后来成为叫做「能」的艺术。
 実際のところ「能」がいかに誕生したのかはまだ解明されていないのですが、『風姿花伝』の主張は意外と的を射ているという見方もあります。
 其实到现在也没弄清楚「能」到底是如何诞生的,有人就认为《风姿花传》的主张意外地正中靶心。
 ルーツを辿っていけば、神楽以前にも中国や韓国で古くから行われていた仮面芸能があって、その影響から始まり独自の発展を遂げたものと考えられます。その「独自の発展」が、神話を伝える神楽にあったという考え方です。神楽といえば厳かな雰囲気を想起しやすいものですが、民間に伝わり現代でも楽しむことのできる神楽には即興要素や観覧者との掛け合いなども含めてコミカルな部分が数多く見られます。一般大衆に親しまれていく上で重要な要素であることは間違いありませんし、農作業と共に行われた「田楽」とも影響しあう形で「猿楽」へと発展していった歴史も想像しやすいものです。
 追根溯源的话,在神乐出现前在中国和韩国就有自古以来一直进行着的假面艺术,神乐被认为是受到它们的影响而进行了独立发展的成果。这个「独立发展」,可以从讲述神话的神乐里看出。说起神乐容易联想到严肃的氛围,但在民间传播并且在现代也能享受的,是神乐里面包含了的即兴要素和观众互动,可以看到有很多搞笑成分。这无疑是为了亲近一般大众的重要成分,它和与农业一同举行的「田乐」互相影响,从而发展成「猿乐」,这样的历史也不难想象吧。
 神楽にもさまざまなスタイルがあって、特に明治期に国家神道が推し進められた時期に改変されたり、戦時中に途絶えた後に復活したものなど、聖徳太子が秦河勝に真似をしろと指示した「神楽」がどういったものか確実にはわかりませんが、本来何日もかけて奉納される「六十六番」構成の神楽が長すぎることから再編されていき、シリアスな「能」と滑稽な「狂言」を交互に演じる「能楽」のスタイルが確立されていったものと思われます。聖徳太子が作ったとされる「六十六番の面」が、フルサイズの神楽で使われていた面であり、それを受け取った河勝もしくはその子孫たちが「猿楽」としてまとめ上げていった歴史は、本当にあってもおかしくありません。猿楽から能楽への発展が、秦氏の子孫である観阿弥・世阿弥の功績であることは間違いないところなのですから。
 神乐里也有各种各样风格,特别是在明治期间推进国家神道时被改造、在战争中消失、后来又复活的神乐,圣德太子命令秦河胜模仿的「神乐」到底是什么样的,这的确还不清楚,本来花费数天献上的用「六十六曲」构成的神乐就因为太长而被重编,成为严肃的「能」和滑稽的「狂言」交替演出的「能乐」风格。圣德太子制作的「六十六种面具」,是在完整的神乐里使用的面具,接受它们的秦河胜或者是他的后代们,以「猿乐」的形式对其进行归纳整理的历史,就算真的存在也一点都不奇怪。从猿乐到能乐的发展,秦氏的后代观阿弥、世阿弥的功绩是不可否认的。
塩田信之
盐田信之
 主にゲームやアニメ関係の文章を執筆しているフリーライター。最近の仕事では『真・女神転生DEEP STRANGE JOURNEY』限定版付属の25周年記念教典『メガテンマニアクス』の編集執筆、公式サイトの神話コラム「神話世界への旅」など。
 主要书写与游戏、动画有关的文章的自由作家。最近的工作是编辑和书写《真·女神転生DEEP STRANGE JOURNEY》限定版所付属的25周年纪念教典《Megaten Maniax》,以及官方网站的神话栏目「通往神话世界的旅行」等等。