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东方外来韦编/肆/幻想之源

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  • 内容分别于杂志中页数:037、039、042-43
  • 翻译:hyzdjx

幻想之源

Fragment of Phantasy

東方Projectに散りばめられた、さまざまな幻想の欠片を覗き見るコラム。
今回もライター・塩田信之氏による解説でお届けする。
まずは東風谷早苗とも大いに関係する「神職」についてだ。
本栏目将窥视星罗棋布于东方Project里的,各式各样的幻想碎片。
本期也由作家·盐田信之先生进行解说。
首先从跟东风谷早苗密切相关的「神职」谈起。
諏訪の神職について
关于诹访的神职
 名だたる神社の中でも、「御柱祭」などで異彩を放つ「諏訪大社」。非常に古くからあって、一説には縄文時代にも遡ることのできる歴史ある神社とされていますが、伊勢神宮や出雲大社とは違う独特のどこか暗い印象があるのも確かです。ここでは神職に注目して見てみましょう。
 放眼著名的神社,「诹访大社」因「御柱祭」而毫不逊色。诹访大社很久以前就存在了,一说它是可以追溯到绳文时代的历史悠久的神社,给人以与伊势神宫和出云大社不同又独特的有些阴暗的印象。在这里让我们先着眼于神职吧。
普通の神社とは違った諏訪大社
和普通神社不同的诹访大社
 普通、神社といえば「神主さん」がいるものと考えがちですが、実際に「神主」という役職があるわけではありません。神社で働く人たちのことを正しくは「神職」と呼びますが「神主」はその親しみやすい形にした愛称のようなものです。
 一般而言,说到神社就容易认为有「神主大人」,但实际并没有「神主」这个职位。在神社里就职的人们正确来说应称为「神职」而「神主」是它平易近人的爱称般的称呼。
 一般的な神社には、その代表者として「宮司」がいます。その補佐役となるのが「禰宜(ねぎ)」です。ここまでは神社にそれぞれひとりしかいません。その次が「権禰宜(ごんねぎ)」で、神職としては「平社員」に近い立場となります。もっとも、基本的には神職に含まれない巫女や神社運営に関係するスタッフなどがいる場合もあるため、神社内で立場が低いということにはなりません。そもそも神社に限らず人手不足が常の世の中ですから、宮司しかいない神社というのも少なくはありません。
 在一般的神社中,「宫司」是其中的代表。「祢宜」是辅助他的职位。到此为止都是神社中只有一人担任的职位。其次是「权祢宜」,作为神职处在近似于「普通员工」的位置。不过,有时由于存在着基本上不包括在神职中的巫女和运营神社的相关人员,因而不会出现在神社内地位低的情况。说到底人手不足是不仅仅是神社的世间之常态,只有宫司的神社也不少。
 そんな普通の神社における神職と比べると、少なくとも昔の諏訪大社は少々様子が異なっていたようです。例えばすべての神社の中心的存在と言える伊勢神宮も、宮司の上に「祭主」がいるなど神社によって神職の構成が異なることはままあるのですが、諏訪大社の場合は役職名が違うといったレベルではない根本的な違いがありました。
 和在这种普通神社的神职相比,至少以前的诹访大社里的情况有些不同。例如作为一切神社中心的伊势神宫在宫司之上也有「祭主」存在这样,不同神社的神职构成有差异是常有的事,但诹访大社的差异性不在职务名不同的层次而在根本上有异。
 明治以前の諏訪の神職における最高位は、「大祝」と書いて「おおほうり」と呼ばれる存在です。「祝(ほうり)」という役職があることは『日本書紀』にも記されていて、古代では神に仕える存在として諏訪以外でも設けられていた役職で、禰宜に次ぐ立場でした。これが諏訪の「大祝」の場合、「生き神様」というニュアンスが加わります。「お諏訪さま」「諏訪大明神」そのものと考えられ、「神氏」とも呼ばれた「諏訪氏」の一族が世襲してきたとされています。
 明治以前诹访神职的最高职位,是写作「大祝」读作「Oohouri」的存在。「祝」这种职位在『日本书纪』里就有记载,这个在古代作为侍奉神社的职位在诹访以外也有设立,地位次于祢宜。如果是诹访里的「大祝」,还拥有「活的神明」的含义。由被认为是「诹访大人」「诹访大明神」本身的,被称为「神氏」的「诹访氏」一族世代传承。
「大祝」と「神長官」
「大祝」和「神长官」。
 大祝に次ぐ立場となるのが、「神長官(じんちょうかん)」です。明治期に入るまでは「守矢家」が代々この役職を受け継いでいました。「東方」ファンならば、東風谷早苗の名前のゆかりがその「守矢家」にあることを知っている方もいるのではないかと思います。また、洩矢諏訪子の名の由来もこの先関わってきます。
 地位次于大祝的,是「神长官」。直到明治时期都是「守矢家」代代继承的职位。如果是「东方」的粉丝,可能会知道东风谷早苗的名字与「守矢家」有缘。另外,洩矢诹访子这个名字的由来也将在后文与此发生关联。
 諏訪大社は「上社」として「本宮」と「前宮」があって、さらに「下社」として「秋宮」と「春宮」がある四社で構成されている点が特徴のひとつになるわけですが、「大祝」は上社と下社それぞれにいました。他にもいくつか「祝」のつく役職が設けられていて、権禰宜に近い立場として神への奉仕に従事していました。
 诹访大社的一个特征是由作为「上社」的「本宫」和「前宫」,以及作为「下社」的「秋宫」和「春宫」这四社构成,「大祝」在上社和下社分别存在。除此以外还设立了几个「祝」的职位,以与权祢宜相近的地位从事侍奉神的工作。
 神長官が上社のみの役職だったことは、少なくとも7世紀にはあったことが確認されている上社に対し、下社は後に(一説には12世紀ごろ)建てられたことが関係していると考えられます。「守矢家」の文書を収蔵した「神長官守矢史料館」に収められ、「洩矢神社」の由緒の根拠ともなっている『諏訪大明神画詞』という史料には、諏訪の地には元々「洩矢神」がいたが、タケミナカタの侵略によって敗北した洩矢神がタケミナカタを祭る神長官となったと記されています。この記述をそのまま信じるなら神長官は大祝でもあったと取ることもできますが、タケミナカタに服属した後の大祝はタケミナカタの現人神と解釈されるようになったのかもしれません。実際、下社の大祝となった「金刺氏」は皇族に仕えた「舎人」出身の家系とされ、大祝については上社より下社の方が格上とみなされていました。
 相比至少在7世纪就被确认的上社,下社是后来(一说是12世纪左右)建的,这与神长官是仅在上社存在的职位这一事实相关。在收藏了「守矢家」的文书的「神长官守矢史料馆」里,收纳了是「洩矢神社」的由来根据的『诹访大明神画词』这一史料,在这里记载了诹访之地原本存在着「洩矢神」,因受建御名方神的侵略而败北后洩矢神就成为建御名方神的神长官这一事。如果完全相信这份记述的话就可能倾向于,将服从于建御名方神的后来的大祝解释为建御名方神的现人神。实际上,作为下社的大祝的「金刺氏」是出身于曾服侍皇族的「舍人」的家系,在大祝的地位上来说下社被认为比上社更高。
諏訪信仰の中心「モリヤ」
诹访信仰的中心「洩矢」
 モリヤと聞いて、古代豪族の「物部氏」を思い出した方もいるかもしれません。飛鳥時代に最盛期を迎えた当時の長が物部守屋でした。先代の頃から仏教推進派の「蘇我氏」と対立し、「丁未の乱」で蘇我馬子によって自殺へと追い込まれました。
 听到洩矢,可能有人想到古代豪族的「物部氏」。即在飞鸟时代迎来最盛期时其家长物部守屋。他和从先代时就是佛教推进派的「苏我氏」对立,在「丁未之乱」被苏我马子逼到自杀。
 洩矢を「モレヤ」と読むこともありますが、同じ「モリヤ」とも読めるため、この関係は昔からさまざまな憶測を呼ぶことになります。中にはタケミナカタが物部守屋だとする説もあって、大和朝廷にとって逆賊とされた守屋が諏訪に落ち延びて、名を出すことが憚られるようになったと解釈されています。確かに守屋が活躍した時期は『古事記』成立の百年以上前のことですから、編纂時あるいは後の時代に付け加えられたとしてもおかしくはありません。タケミナカタを守屋とした場合、もともとの神体山だったと考えられる守屋山信仰はどうなるのかとか、国譲りのタケミカヅチは誰になるのかとか、さまざまな伝承と整合性を取っていく必要は出てきますし、この先も仮説の域を脱するのは難しそうですが、面白い説だと思います。
 洩矢也有「Moreya」的读法,也能读作「Moriya」,关于这之间的关系从很久以前就有各种各样的揣测。其一说建御名方神就是物部守屋,解释则是对于大和朝廷而言是逆贼的守屋逃到诹访,而不敢扬名。守屋活跃的时期确实是在『古事记』出现的几百年前,编纂时改编或者于后世被附加上去也不奇怪。若建御名方神是守屋,原本被认为是神体山的守屋山信仰该怎么解释,让国神话里的建御雷神又会是谁,便出现了整合各种传说的必要,虽然这之后难以脱离假说的领域,但仍是有趣的假说。

諏訪大社のご祭神といえば、タケミナカタ。
そんなタケミナカタを巡る話は謎が多く……。
说起诹访大社的祭神,就是建御名方神。
围绕着建御名方神的事情有很多谜团……。
諏訪大明神タケミナカタについて
关于诹访大明神建御名方神
 古代から冶金技術を持った集団が住んだとされる諏訪の地は、日本列島の中心に位置する重要な土地として幾度となく時の権力者の侵略対象とされてきました。そうした歴史の変転ぶりは、この地の信仰にも表れています。ここでは諏訪大社の祭神タケミナカタに注目してみましょう。
 持有冶金技术的集团自古以来就居住的诹访大地,作为位于日本列岛的中心的重要土地多次成为当权者的侵略对象。这种历史上的转变,也表现在当地的信仰上。在这里让我们关注下诹访大社的祭神建御名方神吧。
謎多き神タケミナカタ
扑朔迷离的神建御名方神
 諏訪大社の祭神タケミナカタは日本全国の規模で見て非常に人気の高い神様です。日本全国にある神社の総数は10万社以上とも言われますが、規模や形態もさまざまですし、日本政府に包括的な管理を行う省庁がないため正確な数はわかりません。中でももっとも数が多いのは「八幡さま」と言われ、「お稲荷さま」や「天神さま」、「神明さま(伊勢神宮をはじめとするアマテラスを祭神とする神社)」が続き、だいたいその次くらいに「お諏訪さま」が来るようです。神社分布統計データはさまざまな結果があって確定的な順位はありませんが、神社本庁(国の機関ではなく、各神社が所属する包括的宗教法人)の公式サイトでも「主だった神さま」としてこれらが挙げられていることからも広く信仰されているのは間違いのないところです。
 诹访大社的祭神建御名方神在日本全国里看都是人气非常高的神明。据说日本全国拥有的神社总数在10万以上,规模和形态各式各样,由于日本政府里没有进行总管的省厅所以不知道准确的数目。在这之中最多的被称为「八幡大人」,其次是「稻荷大人」、「天神大人」和「神明大人(以伊势神宫的天照大神为主祭神的神社)」,再其次是「诹访大人」。神社分布统计数据的结果各式各样而没有确定的顺序,在神社本厅(不是国家机关,而是各神社所属的进行总管的宗教法人)的官方站点上也是被作为「主要神明」列出因而可以说建御名方神无疑有着广泛的信仰。
 そんなタケミナカタですが、いわゆる「日本神話」の大元『古事記』と『日本書紀』を見る限り、どうしてそれほどの人気を勝ち得たのかわかりません。『古事記』の有名な「国譲り」の段にオオクニヌシの息子として登場しますが、役どころとしては、天から降りてきたタケミカヅチに「国を譲れ」と迫られたオオクニヌシが自分の代わりに答えると責任転嫁される形となった兄弟の弟です。しかも兄のコトシロヌシはあっさり「譲ります」と答えたので、譲りたくなかったタケミナカタはたったひとりの抵抗勢力としてタケミカヅチと争う立場となります。
 建御名方神,如果仅在所谓「日本神话」的根源的『古事记』和『日本书纪』里看,是无法得知它是如何赢得这么高的人气的。他在『古事记』里著名的「让国」的片段中作为大国主的儿子登场,却没有派上用场,反而作为被从天而降的建御雷神以「让出国来」威胁的大国主用来代替自己回答和转移了责任的兄弟中的弟弟。并且由于兄长八重事代主神轻易回答了「愿意让国」,因而不愿意让国的建御名方神作为单独的抵抗势力站在和建御雷神相争的立场。
 と、ここまでは国を守ろうとした雄々しい英雄的存在なのですが、その後はご存知の方も多いでしょうが力比べに敗れて諏訪の地まで逃亡し、タケミカヅチに追いつめられると「もうこの地(諏訪)から出ない」と命乞いをして許されたちょっと情けない神様です。『日本書紀』に至ってはコトシロヌシまでは出てくるもののタケミナカタは名前も出てきません。神功皇后や坂上田村麻呂らに軍神として崇められるような存在とは思えないというのが、一般的な見方ではないでしょうか。
 至此,这都是作为希望守护国家的英勇的英雄一般的存在,此后大概很多人知道其因为战力不敌而逃亡到诹访之地,被建御雷神紧逼而以「此后不再离开此地(诹访)」乞求性命并被准许结果成为了稍微难堪的神明。在『日本书纪』里则只出现到八重事代主神而建御名方神的名字则没有出现。虽然不是像神功皇后和坂上田村麻吕等那样作为军神被崇拜的存在,但一般而言就是这样吧。
実体のない神タケミナカタ
没有实体的神建御名方神
 そもそも、タケミナカタとは何者なのか、という疑問はそれこそ大昔から議論の的でした。オオクニヌシの息子と言われても、オオクニヌシの神話を伝え『古事記』の元ネタになった『出雲国風土記』にもタケミナカタの名はありません。もっとも、『古事記』だって712年に成立したと言われてはいるものの、原本が現存せず後に作られた偽書説も根強くあって、そもそも江戸時代に本居宣長が注釈書『古事記伝』を著すまであまり知られていない存在でした。
 话说回来,建御名方神到底是何人,这个问题才是很久以前就充满争论的。虽说是大国主的儿子,在以记录了大国主的神话的『古事记』为原素材的『出云国风土记』里也没有建御名方神的名字。况且,虽说『古事记』是712年完成的,但它的原本现在不存在因此有一强有力的说法是它是后来制作的伪书,而且在江户时期本居宣长写出注解书『古事记传』前其很少为人所知。
 タケミナカタは「建御名方」と漢字で書きますが、「建」は同じ『古事記』ではスサノオを「建速須佐之男」と書いているように男神の尊称です。「御名」が見たまま「御名前」で「方」を「貴方」と捉えるなら、タケミナカタの名前には代名詞以上の意味がないことになります。諏訪大社が日本でも最古の神社のひとつとされ、もっとも古い正式記録として927年にまとめられた『延喜式神名帳』に「南方刀美(ミナカタトミ)神社」と記載されており、この「南方」が「(タケ)ミナカタ」を指していることや、諏訪湖の神として「水潟(ミナカタ)」「水方」が名前の元になったともされますが、「刀美」も尊称、後者も「水の神」くらいの意味合いと受け取れます。
 建御名方神的汉字写作「建御名方」,其中的「建」和在『古事记』里将素盏呜尊写作「建速须佐之男」一样是对男神的尊称。如果认为「御名」就是「御名前」而「方」是「貴方」的话,建御名方神这个名字除了代名词以外就没有含义了1。诹访大社在日本也是最古老的神社之一,最早的正式记录是在于927年编纂的『延喜式神名帐』里作为「南方刀美神社」记载,这个「南方」指代「(Take)Minakata2」,是以诹访湖之神「水泻(Minakata)」「水方」的名字为基础,「刀美」也是尊称,后者也以「水神」的意义被接受。
 また、諏訪大社の公式サイトなどを見てもわかるのですが、「タケミナカタ」の名称はほとんど使われていません。基本的に「お諏訪さま」もしくは「(諏訪)大明神」と呼ぶのは地元でも一般的だったりします。うがった見方をするなら、タケミナカタは地元の人々に嫌われているように見えてしまいます。
 另外,在诹访大社的官方网站上一看便知,「建御名方神」这个名字基本上没被使用。基本上以「诹访大人」或者「(诹访)大明神」来称呼并且这一点在当地也一般如此。如果洞察到这一点,可以看出建御名方神是被当地人忌讳的。
 諏訪大社は本殿がない特徴的な形態でも知られていて、これはオオモノヌシを祭神とする奈良の大神神社同様、背後の山(三輪山)あるいは巨石を御神体とした原初的な神社の信仰形態を残したものとされています。「諏訪の神職について(036ページ)」でも触れたタケミナカタよりも古い諏訪の神とされる洩矢神を祀った「洩矢神社」の由緒にも記されているように、諏訪にはタケミナカタを侵略者とする伝承もあって、洩矢神は服属し神長官となったといいます。諏訪大明神が「水の神」と言われるのも、もともといた神が三輪山の神話同様竜神あるいは蛇神だったからと考えられます。地元の人々が「大明神」と呼んでタケミナカタの名を口にしないのは古くからの神を崇敬し続けているという見方もあります。タケミナカタを侵略者で諏訪の地を奪ったと捉えるなら軍神としての崇敬も納得がいきそうですが、どちらにしても地元には嬉しくない神様ということになりそうです。
 诹访大社以没有本殿的特征形态为人所知,这和以大物主为祭神的奈良的大神神社一样,背后的山(三轮山)或者是巨石被当作了御神体这一点是原始神社的信仰形态的残存。在「关于诹访的神职(036页)」也有提及的是和在祭祀着比建御名方神更早的诹访神即洩矢神的「洩矢神社」的由来里显示的一样,诹访有将建御名方神当成侵略者的传说,洩矢神成为了从属的神长官。诹访大明神被认为是「水神」,原本存在的神被认为是和在三轮山的神话里一样的龙神或者是蛇神。当地人以「大明神」称呼这点有观点认为不从口中说出建御名方神的名字是自古以来对神的崇敬。若认为建御名方神是作为侵略者夺取了诹访之地那么将其作为军神进行崇敬也是可以接受的,不管如何对于当地而言他是不讨人喜欢的神明大人。

どんどん深い謎を追っていく本コラム、
4号目のラストは「ミシャグジ」信仰についてだ。
諏訪を巡るキーワードには興味が尽きない。
本栏目不断追向深邃的谜团,
第4本的最后是关于「御社宫司」信仰。
在围绕诹访的关键词里有无穷趣味。
ミシャグジ信仰について
关于御社宫司信仰
 諏訪大社のかつての神長官守矢氏の伝承や、かつて信仰されていた洩矢神と侵略者タケミナカタの伝承を追っていくと、「ミシャグジ神」というキーワードについて触れないわけにはいかなくなります。ここでは、謎多きミシャグジ神とその信仰について見ていくことにしましょう。
 一旦追寻诹访大社以往的神长官守矢氏的传说,以及以往受到信仰的洩矢神和侵略者建御名方神的传说,「御社宫司神」这一关键词就不可能不被触及。在这里,让我们看看扑朔迷离的御社宫司神和它的信仰吧。
諏訪全体が燃える「御柱祭」
燃烧诹访全体的「御柱祭」
 諏訪といえば諏訪湖と「御柱祭」、中でも山の斜面を人が大勢乗った御柱が下る「木落とし」行事を思い浮かべる方が多いと思います。日本全国を見渡してみても、勇壮さと危険度の高さ、知名度の点に五指に数えられる祭りではないでしょうか。
 一提到诹访很多人会想到诹访湖和「御柱祭」,以及在这之中在山的斜面上大批人群乘着御柱滑下来进行的「落木」仪式。即使看遍日本全国,这种雄壮而高危,并且知名的祭典也是屈指可数。
 御柱は諏訪地域の神社のほとんどに見られる独特の風習で、基本的には神社を囲む四隅に神社の大きさ等に合わせた規模の木柱を建てるものです。もちろん諏訪大社の御柱を七年(丸六年毎)に一度建て替える「御柱祭」がもっとも有名ですが、諏訪周辺では小さな祠もそれに見合ったサイズの棒を御柱として囲っています。諏訪大社では、上社の本宮と前宮、下社にあたる秋宮と春宮の四社それぞれ四本ずつ16本の御柱が建て替えられるわけですが、諏訪地方の神社の多くが御柱祭に合わせて御柱の建て替えを行います。
 御柱是在诹访地域的神社随处可见的独特风俗,基本上是在包围神社的四角上建立起和神社规模适合的木柱。当然七年(每整六年)一次的重建诹访大社的御柱的「御柱祭」是最有名的,诹访周边小的祠堂也用尺寸恰好的棒作为御柱将其包围。诹访大社,是将上社的本宫和前宫、下社的秋宫和春宫这四社每个用四根总共用16根御柱进行重建,诹访地方的神社多数会跟着御柱祭进行御柱的重建。
 祭の三年前から選定が行われる諏訪大社四社の御柱はそれぞれが一本あたり十トンを超える樅の巨木で、その伐り出しから「山出し」と呼ばれる行事になります。「木落とし」や町中を人力で引く「里曳き」、川幅40メートル近い宮川を渡す「川越し」を経て「建御柱」と呼ばれる段で建てられます。伊勢神宮をはじめ、神社の建物が定期的に建て替えられる「式年遷宮」行事はあちこちで行われますし、用材の伐り出しやそれを運ぶ「御木曳き」行事もそれに伴い行われます。それらと比べて諏訪の御柱祭が際立っているのは、やはり「木落とし」や「川越し」といった荒々しい行事ゆえです。巨木の類は古くから御神体と目されることも多いわけですし、普通は用材であっても神聖な存在として大切に運ばれるものですが、諏訪では大勢の裸の男たちが乗るわ山から落とす台車やソリなどに載せることもなく引きずり回して川にまで投げ込む荒っぽさです。他の神社同樣「神事」でありながら、「祭り」としてのダイナミズムが大きく目立つ形となっていることが、諏訪を諏訪たらしめていると言えます。
 每一根祭典的三年前就开始选定的诹访大社四社的御柱都是超过十吨的冷杉巨木,将其伐倒带出称为「山出」仪式。然后是「落木」和集城里人力的「里曳」,渡过河宽近40米的宫川进行「川越」后最后在「建御柱」的阶段建起御柱。以伊势神宫为首,各地都会举行将神社的建筑定期重建的「式年迁宫」仪式,用材的伐出和将其搬运的「御木曳」仪式会随之进行。和这些相比诹访的御柱祭引人注目的原因,果然是「落木」和「川越」这种粗野的仪式。巨木一类自古以来就被多认为是御神体,即使是普通的用材也被当成神圣的存在并小心搬运,诹访则用大群裸男登上去从山上砍落下来之后不用平板车和撬而是将其拖向河投进去这种尽显荒蛮的形式。其他的神社同样有「神事」,是作为「祭典」尽显活力的张扬形式,诹访则可以说尽显本色。
御柱とミシャグジ神
御柱和御社宫司神
 しかしながら、この風習がいつから始まり、何を目的としていたのかはさまざまな説があってはっきりとはわかりません。古代から続く伝統的な祭とも言われ、「諏訪の神職について(037ページ)」でも触れた『諏訪大明神画詞』に、桓武天皇の晩年の頃に貢税や課役が始まったとする記述があることを根拠のひとつとして、桓武天皇の在位期間が終わる806年以前を諏訪大社や御柱祭の期限とすることが多いようです。『諏訪大明神画詞』自体はだいぶ後代の一三五六年に成立したもので、諏訪の「大祝(おおほうり)」を伝える諏訪家に属し、足利尊氏に仕えた諏訪円忠が著したもので、当初は『諏訪大明神縁起』のタイトルの絵巻物でしたが、現存しているのは文書部分の写しとなる『諏訪大明神画詞』のみ。「国文学研究資料館」の電子資料館を通じて閲覧することも可能です。
 然而,关于这个风俗从何开始、有何目的的问题则是众说纷纭难以理清。据说是自古以来延续的传统的祭典,在「关于诹访的神职(037页)」提及的『诹访大明神画词』里记载的,桓武天皇的晚年时期开始收贡税和进行徭役的事情被作为一个根据,多认为桓武天皇的在位期间结束时的806年以前有诹访大社和御柱祭的起源。『诹访大明神画词』本体大约是在后来的1356年写成,属于传承诹访的「大祝」的诹访家,由侍奉足利尊氏的诹访圆忠所著,当初是以『诹访大明神缘起』为题的绘卷,现存下来的只有文字部分的抄本『诹访大明神画词』。可以通过「国文学研究资料馆」的电子资料馆阅览。
 その『諏訪大明神画詞』に、諏訪には元々「洩矢神」がいたけれど侵略してきたタケミナカタに敗れ、洩矢神はタケミナカタを祭る諏訪大社の「大祝」守矢氏となった旨の記述があるのは「諏訪大明神タケミナカタについて(039ページ)」でも触れた通り。守矢家では御柱について「ミシャグジ神の依り代」と伝えており、諏訪で古くから信仰されていた「洩矢神」が「ミシャグジ神」と同一と見ることができるようになるわけです。
 在这个『诹访大明神画词』里,有着在诹访原本有「洩矢神」但被侵略而来的建御名方神打败,洩矢神成为祭祀建御名方神的诹访大社的「大祝」守矢氏这个主旨的记述一事与在「关于诹访大明神建御名方神(039页)」提及的一样。守矢家把御柱作为「御社宫司神凭依的对象」传承,因而在诹访自古以来就把所信仰的「洩矢神」和「御社宫司神」看作一者。
 御柱は通常先端部を「冠落とし」と称して、尖らせるように切ってから建てるものとされています。ミシャグジ神は竜神あるいは蛇神とも言われますから、これを蛇の頭に見立てることは自然な連想と思われます。この場合、御柱であるミシャグジ神は諏訪大明神=タケミナカタを守護するために四隅を囲んでいると解釈できます。もっとも、御柱をミシャグジ神とする考え方はあくまでも一説に過ぎず、他にもさまざまな説があって逆に御柱をタケミナカタに見立てて、神社内の諏訪大明神=ミシャグジ神を外に出さないよう封じているといった考え方もあります。そう簡単に結論が出る問題でないことは確かでしょう。
 御柱的顶端部分通常称为「冠落」,将其削尖让其能够作为建筑。因为御社宫司神据说是龙神或者蛇神,所以可以自然联想到这是比喻蛇的头部。这种情况可以解释成,作为御柱的御社宫司神是为了守护诹访大明神=建御名方神而包围四角。原本来说,将御柱考虑为御社宫司神只不过是一种说法,其他还有反过来把御柱比作建御名方神,为防止神社内的诹访大明神=御社宫司神逃离外部而进行的封印之类的各种说法。这确实是无法简单得出结论的问题。
「ミシャグジ」信仰とは何か
「御社宫司」信仰是什么
 「ミシャグジ」という言葉は古いもので、恐らくは原初的な信仰として山もしくは岩などを御神体と見立てていたころから使われていたと思われます。漢字での表記にはさまざまあって、読み方も必ずしも「ミシャグジ」とは限りません。主だったところでは「御社宮司」や「御佐口」、「御石神」とする解釈が多いようです。ただし、『古事記』などを見ると神名に漢字をあてる際に「訓読み(大和言葉)」を前提とすることが多いのですが、「ミシャグジ」の場合は「音読み」です。これを大和言葉が使われる前から使われていた根拠とすることもありますが、ミシャグジの正体を特定できない理由にもなっています。
 「御社宫司3」这个词很古老,恐怕在原初的信仰里将山或者岩石比作御神体时就开始使用了。汉字的表示有多种,读法也未必都是「Misyaguji」。主要多解释为「御社宫司」和「御佐口」、「御石神」。但是,如果看『古事记』这种书时神名用汉字填充的时候读音多以训读(大和语言)为前提,但是「御社宫司」的话是「音读」。这是在大和语言使用前就在使用的根据,也成为御社宫司的正体无法确定的理由。
 「御社宮司」の場合、神長官守矢家邸内に「御頭御社宮司総社」が建てられているという点で、「御頭」は諏訪大社で「御柱祭」とともに古くから伝わる、「御贄柱」と呼ばれる木柱や剥製の鹿の頭を供える神事に通じる名称です。古くはミシャグジ神に本物の鹿の頭を75体分用意する儀式だったとも言われていて、ミシャグジ神が生贄を求める恐れられた神で、その信仰が狩猟中心に人々が生活を行っていた頃から続くものとする根拠にもなっています。字義通りに捉えた場合、神社の宮司がミシャグジ神で、現人神「大祝」の考え方や洩矢神が神長官守矢氏になったという伝承に符合します。
 「御社宫司」的话,神长官守矢家住宅内有建立「御头御社宫司总社」,「御头」是诹访大社里和「御柱祭」一同自古流传的、将称为「御贽柱」的木柱和剥制的鹿头进行供奉的神事的通用名称。古代据说是为御社宫司神准备75个真正的鹿头的仪式,御社宫司神是极度渴求活祭品的神,这成为该信仰从人们以狩猎为中心进行生活的时候起就一直持续着的依据。如果按照字意解释,那么这是与神社的宫司是御社宫司神、「大祝」是现人神以及神长官守矢氏是洩矢神的传说符合的。
 「御佐口神社」も実際にあって、ミシャグジ神を祭神とする「佐口神社」として各地にあったりもします。「ミサグチ」とも読めますが、ミシャグジはミシャグチと呼ばれる場合も多く、「シャクチ」を「赤蛇」の意と取る吉野裕子氏の説も有名です。
 「御佐口神社」实际存在,把御社宫司神作为祭神的「佐口神社」在各地都有。「御社宫司」可以读作Misaguti4,也多读作Misyaguti,把「Syakuti」取作「赤蛇」之意的吉野裕子的说法也很有名。
 「御石神」は「ミシャクジン」とも読めますが、御神体を石とする考え方に合致するものでミシャグジ信仰が諏訪に限らず各地にもあって、それぞれが本来的には石を御神体としていたという考え方に通じます。東京の練馬区にある地名「石神井」もミシャグジに通じるもので、石神井神社には井戸から見つかったとされる御神体「石棒」が祭られています。諏訪でも石の棒をミシャグジに見立てることは多いのです。また諏訪には「七石」と呼ばれる巨石も伝えられていますから、それらが実際に「石神」として信仰されていた可能性も十分にあります。
 「御石神」也可以读作「Misyagujin」,这和把御神体作为石的想法一致并且与御社宫司信仰不仅限于诹访各地有、各地原本都把石当成御神体的这种想法相通。东京的练马区里某个地名「石神井」也和御社宫司相通,石神井神社里祭祀着从井里找到的御神体「石棒」。诹访里也多将石棒当作御社宫司。另外诹访里也传颂着被称为「七石」的巨石,它们实际上十分可能是作为「石神」受到信仰。
 こうしたミシャグジ神に関するさまざまな説は、恐らくどれかひとつが正解ではなく、諏訪のミシャグジ信仰をベースに広まっていったものや、各地に伝わる石神信仰と合体したりした土着信仰も数多く混ざり込んでいるのでしょう。実際に、大和朝廷勢力が日本各地を平定していった歴史の中でタケミナカタのように抵抗し、現在のいわゆる「神道」に組み込まれることを避けようとした結果がミシャグジ信仰だったのかもしれません。
 与如此这般的御社宫司神相关的说法,恐怕哪种单拿出来都不是正解,以诹访的御社宫司信仰为基础广布的信仰,或者是和各地流传的石神信仰融合的土著信仰很多都杂糅在一起了吧。实际上,大和朝廷势力在平定日本各地的历史里由于想避免类似于建御名方神的抵抗之事,而混入了现在所谓的「神道」的结果可能造就了御社宫司信仰。
 直接的にミシャグジ信仰とは繋がらないのですが、諏訪大明神にはほかにもいろいろと面白い伝承があります。特に江戸期にはお伊勢参りやこんぴらさんなどと並んでお諏訪さまも人気でしたから、面白おかしく話を広げた創作も多いです。例えば江戸期の説話集『神道集』にある諏訪縁起には、甲賀三郎という恐らくは創作上のキャラクターが、地中をさ迷った末に蛇の姿に変じ諏訪大明神になったという話があります。蛇の姿の諏訪大明神は非常に巨大で、いわゆる神無月に全国の神々が出雲大社に集まるけれど、大明神は頭が出雲に到着しても尻尾はまだ諏訪に残っているとか、その巨体ぶりが邪魔だから神無月の集会には呼ばれなくなったという話もあります。
 虽然没有直接跟御社宫司信仰联系,诹访大明神还有其它各种各样的有趣传说。特别是在江户时期和伊势参拜、金毘罗宫等并列的诹访大人也很有人气,因此有很多传播了有趣故事的创作。例如江户时期的说话集『神道集』中的诹访缘起里,有着甲贺三郎这个恐怕是虚构的角色,在迷失在地下的最后成为了蛇形姿态的诹访大明神的故事。也有故事说蛇形姿态的诹访大明神非常巨大,在所谓的神无月在出云神社聚集了全国的神明的时候,大明神的头即使到达了出云尾巴也仍留在诹访,由于这个巨体非常碍事后来就没有让它去神无月的集会了。
 現実の諏訪大社に「蛙狩神事」という、蛙を捕らえて串刺しにする奇妙な行事があって、現代では動物愛護の観点から問題になったりもしましたが、そんな古すぎて意味がわからなくなった奇習が残っていることも諏訪大明神の魅力につながっているのでしょう。研究者のみならず一般人レベルでも想像がかき立てられどんどん新しい伝説が作られ続けることにも繋がったと言えます。上記「蛙狩神事」は大明神が蛇神だという根拠となるとともに、諏訪の大石の下に長大な穴があって『浦島太郎』にも出てくる竜宮と繋がっているという説ができたりもしています。伝説が広がり続け、現代に至ってもさまざまな謎が議論され続けている「お諏訪さま」がどれだけ人々に愛される存在なのか、すべてはそこに行きつくことなのかもしれません。
 现实的诹访大社有「蛙狩神事」,这种捕捉青蛙并将其串刺的奇妙仪式,以现代的动物保护的观点看是会有问题的,这个奇俗由于太过古老已经不清楚它的含义但它也留下来并成为了诹访大明神的魅力了吧。不仅是研究者就连一般人级别也可以放飞想象不断创作出新的传说。上述的「蛙狩神事」是以大明神为蛇神作为根据,还有结合诹访的大石下存在的高大洞穴里与『浦岛太郎』里出现的龙宫来创作出的故事。传说不断广布,即使到了现代其各类谜团也不断引起议论的「诹访大人」是多么受人喜爱的存在,都可能是本文上述的内容造成的。
塩田信之
盐田信之
主にゲームやアニメ関係の文章を執筆することが多い、歴史と神話好きなライター。前号より本コラムの執筆を担当しているが、「メガテン」関連の攻略本やファンブックに長くかかわってきたため、その博識ぶりには折り紙付き。東方の作品がますます神話や伝承に接近しているため、今後も執筆内容が注目される。
主要编写关于游戏和动画的文章,是个喜欢历史和神话的作家。从上一本杂志开始负责书写本栏目,由于他长期制作「女神转生」相关的攻略集和同人志,他的博识是可以保证的。由于东方的作品越来越和神话和传说靠近,今后他的写作内容也受到注目。
  1. 「御名前」,「御」是表尊敬,「名前」即名字,「貴方」是第三者指代,古语中的尊敬含义比现代强
  2. Minakata是日语里“南方”一词的音读」,Takeminakata是建御名方神的读音
  3. 读作Misyaguji
  4. 御佐口