• 欢迎来到THBWiki!如果您是第一次来到这里,请点击右上角注册一个帐户
  • 有任何意见、建议、求助、反馈都可以在 讨论板 提出
  • THBWiki以专业性和准确性为目标,如果你发现了任何确定的错误或疏漏,可在登录后直接进行改正

东方外来韦编/2019 Autumn!/幻想之源②

来自THBWiki
跳到导航 跳到搜索
  • 该内容于杂志中页数:018-019
  • 翻译:院长each

幻想之源②

Fragment of Phantasy


塩田氏によるコラム2本目は、改めて付喪神について。
妖怪の発生や伝播を鮮やかに俯瞰する内容に注目だ。
文/塩田信之
盐田专栏的第二篇,依然是关于付丧神的。
请欣赏本文如何巧妙地俯瞰妖怪的诞生和传播。
文/盐田信之
付喪神について その2
关于付丧神 之二
 前回は途中から秦河勝の話になってしまったので、今回は改めて付喪神について違った角度から掘り下げてみることにしましょう。
  上次半路上改道去谈秦河胜了,这次就回来从其他角度深入挖掘付丧神的事吧。
 付喪神は同じ読み方で「九十九神」と書かれることも多いように、作られて百年も経つような古い器物になにか霊的な存在が宿った状態を指します。付喪神となった器物は目鼻や手足が生えたり、ことによっては鬼にも似た肉体を獲得し、同じような付喪神やさまざまな妖怪と集って街中を練り歩いたりします。それが、いわゆる『百鬼夜行』として主に江戸期に描かれた妖怪画として残っているものです。
  付丧神也经常被写作读音相同的「九十九神」,指的是在自作成起已有上百年般古旧的器物中住宿着某种灵性存在的状态。成为付丧神的器物会长出五官和手脚,看情况还会获得类似鬼的肉体,物以类聚地和各种妖怪一起上街游行。这就是主要绘制于江户时期并残存至今的,被称为的《百鬼夜行》妖怪画中的内容。
 そう思って世に残る『百鬼夜行』図の類を見てみると、そこに描かれている妖怪の半数以上が人々の生活に身近な食器や仕事に関係した道具類、あるいはお坊さんが法事の際に用いるような仏具などが妖怪に変じた姿であることに気づきます。妖怪たちが集って練り歩く「百鬼夜行」は平安時代の頃からさまざまな書物に記録されてきましたが、少なくとも図画に描かれた江戸の頃は集った妖怪の多くが付喪神あるいはそれに類する存在だと考えられていたということになります。特に、都市部ではそうした傾向が強かったのでしょう。
  这么想着来分类看看残存于世的《百鬼夜行》图,可以注意到其中描绘的妖怪有一半以上是人类生活中身边的餐具之类,和工作有关的器具之类或者是和尚作法事用到的佛具之类的东西变成了妖怪的姿态。妖怪们结伙游行的「百鬼夜行」的确是从平安时代起就被记录在各种书籍中了,但最早也是在有图画记录的江户时期结伙的妖怪才被认为大多都是付丧神或类似的什么东西。这种倾向,在城市地区特别地强烈。
 各地にさまざまな妖怪が民話として伝えられている日本で、それほど付喪神の存在感が強かったというのも少し意外と感じられるのですが、そこは地方と都市部にあった意識の差が出ているようにも思えます。逆に、地方の民話にある妖怪たちがどんな存在だったかを考えてみると、自然現象や動物などを怪物的に捉えたものだったり、元は人だったけど執着や恨みの念から鬼などに変じたというパターンは少なくありません。自然現象は人間の歴史など比較にならないほど古い存在ですが、動物は「猫又」の伝承にも見られるように、長い年月を生き続けることで妖怪化することがあると考えられていたようです。人間の場合は寿命というよりも「思いの強さ」みたいなものが妖怪化に関係しているようですが、動物の場合も年月についてはまちまちだし、人間との関係性によっても妖怪化する時期は変わってくるようです。この辺り、器物が付喪神化するのと本質的には変わらないのではないでしょうか。そもそも人間が関わっていなければ昔話として語られることがないとは思いますが、動物も器物も人間の影響を受けてモノノケ化したか、それが早められたように思えます。
  在日本各地的民间传说中有各种各样的妖怪被流传下来,其中付丧神的存在感如此之强,虽然多少有些令人意外但我想似乎能从中看出乡村和城市之间意识的差异。反过来说,想想乡村民间传说中的妖怪是什么样的存在,不少的模板是把自然现象和动物之类的东西当成怪物,还有本来是人却因为执着和怨恨而变成了鬼。自然现象是远比人类历史更久远的古老存在,从「猫又」的传说来看,似乎动物也可以通过存活多年而变成妖怪。人类的话比起寿命更像是基于「念想的强度」之类事物来和妖怪化扯上关系,动物的话关于年份也有各种发展,即基于和人类之间的关系妖怪化的时期也是会不一样的。这样看,器物的付丧神化在本质上也并不奇怪。我想,不多多少少和人类产生点关系就不会被传说,但动物和器物都是受人类的影响才变成物怪的吗,还是说变化因此加速了呢。
物に宿る神
宿于物的神
 日本人はありとあらゆるものに神性を見出し、神として崇めてきました。山そのものや、巨大な岩、樹木、川や滝など、古くからあるものや美しいもの、人間の力では動かしたりできないもの、時折人間も巻き込む災厄を引き起こす存在を神と呼んでいます。祭祀を行い崇めたのは、特に機嫌を損なうと怖い神を鎮め、できるだけ災厄から逃れたいという思いからでしょう。山も川もそれそのものが神であり、そこに人間に似た「神様」がいるという想像まではしていなかったのではないかと思います。
  日本人在天地万物中都看出了神性,将其作为神来崇拜。山这样直接的物,还有巨石、树木、河流和瀑布等,这些古老而美丽的物,人力无法移动的物,有时会将人类卷入灾难的存在都被称为神。举行祭祀奉上敬意,我想大概是为了安抚一旦触怒就会很恐怖的神,因为想尽可能地躲避灾难。山啊河啊这些物本身就是神,再从中想象出还有一个类似人类的「神明」了吧。
 人間に似た姿の神様が創られていったのは、人間が強くなり治水や灌漑である程度災厄の統御が可能となってからでしょう。それと同時に、付喪神のベースとなる「宿る神」の概念も誕生します。それまで神そのものだった山や岩は神の宿った「御神体」と捉え直され、やがて人工的に作られた「物」へと置き換えられ「神社」というこれまた人口の建造物に祀られます。神話にも、天上の世界に住む(まだ人間にはまったくコントロールできない)太陽でもある最高神アマテラスが、地に降りる孫ニニギに「自身そのもの」として「八咫鏡」を勾玉や剣とともに授けています。いわゆる「三種の神器」それぞれが「神の宿った人工物」だったというわけです。
  人类大概是在强大到能通过治水和灌溉来在一定程度上控制灾害之后,创作出了看起来像人类的神。与此同时,作为付丧神的基础的「宿神」这一概念也诞生了。在此之前类似山和石这样的直接作为神明的物被重新解释为神宿于其中的「御神体」,最后被以人工制造的「物」取代被供奉到一座名为「神社」的人造建筑中去了。在神话中,住在天上世界的身为(人类至今也根本控制不了的)太阳的最高神天照,将等同于她自身的物「八咫镜」和勾玉以及剑一起授予她那要降临地球的孙子琼琼杵。所谓「三种神器」,每一种都是「宿有神的人造产物」。
 神話の類は後代の創作で、往々にしてその時代に生きた人々が実際に信仰していたわけではないことが多いのですが、人々の生活に密着したところにも人工物に宿った神はいました。その代表的なものとしてまず挙げられるのは、「かまどの神」でしょう。日本では『古事記』の大国主の段に奥津日子(オキツヒコ)と奥津比売(オキツヒメ)の兄妹神として記されていますが、実際にそう呼ばれていたかどうかはともかく、天孫が降臨したとされる時期や日本にその神話をもたらした人々が到来する遥か以前から広く信仰されていたようです。かまどの神としてはギリシア神話の女神ヘスティアなどが有名で、人間が火を使い始めた頃から「時に火事にも繋がる」かまどそのものを神として怖れ崇めたと考えられます。「火の神」として自然現象に近い存在ではありましたが、かまどは人工物であり、火も人間が意図的に起こしていたわけですから、「物に宿る神」だったと言えます。古事記の少し前の箇所には、ガガイモの舟に乗って表れた少彦名(スクナヒコナ)の正体を知る「かかし(案山子)の神」として「クエビコ(崩彦)」も登場しています。それもまた、収穫を守る「物に宿る神」でしょう。
  神话之类的是后人的创作,往往大都不是生活在那个时代的人们真正相信的东西,但在和人类生活密切相关之处早已有着宿于人造产物中的神。举一个典型的例子,就拿「灶神」来说吧。在日本《古事记》里大国主的部分记载了一对兄妹神奥津日子和奥津比卖作为灶神,且不说是不是真这么叫的,好像其实早在天孙降临或者说为日本带来这个神话的人们到来之前就被广泛地信仰着了。灶神里有名的是希腊神话的女神赫斯提亚,人类被认为从开始用火以来就将「时不时会生出火来」的灶这物品当作神来敬畏。虽然我们身边也有名为「火神」的近乎自然现象的事物,但灶是人造产物,火也是人类可以有意点起来的,所以说是「宿于物的神」。古事记里这前面不远处,「久延毘古」作为「稻草人之神」被认为是乘萝藦船出现的少彦名的真身而登场了。这,也是守护丰收的「宿于物的神」。
付喪神としての発展
作为付丧神来发展
 そんな『古事記』や日本の正史とされる『日本書紀』がまとめられたのは八世紀と言われていますが、その内容はいくつかの土地に古くから口述で伝えられてきた神話的な部分を含んだ歴史を、大和朝廷に都合のいい形に改変しまとめたものです。八世紀といえば、奈良から平安時代へと移り変わっていく時期で、いわゆる「仏教公伝」以降、中国や韓国からさまざまな知識や思想が入ってきた時期でもあります。鬼や怨霊が人々や都に脅威をもたらしていると信じられ、妖怪たちが通りを練り歩く『百鬼夜行』という現象もこの時代から『今昔物語集』などを通じて伝わってきたものです。
  虽说这《古事记》和被认为是日本正史的《日本书纪》是在八世纪编纂的,但其内容是将各片土地自古以来口口相传的神话般的部分也包含了的历史,配合大和朝廷的意思改写而成的。说到八世纪,那是从奈良时代转为平安时代的时期,自所谓「佛教公传」以来,源自中国和韩国的各种知识和思想被传入的时期。鬼和怨灵被相信对人们和都城构成了威胁,妖怪们在街上游行的『百鬼夜行』现象也是从这个时代开始通过《今昔物语集》等事物流传下来的。
 『付喪神』は室町時代(十四〜十六世紀)から使われるようになった新しい言葉で、よく引用される「陰陽雑記云、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すといえり」の一文は室町後期作とされる通称『付喪神記』と呼ばれる絵巻物に記されています。そこに、さまざまな器物に手足が生えたような妖怪が描かれ、以降江戸期を通じて描かれる妖怪絵の中心的モチーフとなる「百鬼夜行」へと繋がっていったと考えられます。『付喪神記』の物語は、年の暮れの煤払いで打ち捨てられた器物たちが、「古文先生」と呼ばれる書見台に顔がついたような妖怪を中心に人間に対するクーデターを企てたものの、尊勝陀羅尼の呪文で調伏され護法童子(『信貴山縁起』にも出てきましたね)にも追い立てられて敗北、その後「一蓮上人」という数珠の付喪神の元で出家し、仏教の修行に励んで成仏するというものです。どことなくユーモラスで、仏教説話集として教訓的な物語としてまとめられています。
  「付丧神」是从室町时代(十四~十六世纪)开始被使用的新词,常被引用的「阴阳杂记云,器物经历百年,变化而得到精灵,于是诳骗人心,故号之付丧神」这段文字出自室町时代后期作成的通称《付丧神记》的绘卷。那上面,画着各种各样器物生出了手足般的妖怪,被认为导致「百鬼夜行」从此成了整个江户时期间绘制下来的妖怪绘画的核心。《付丧神记》这个故事,说的是年末大扫除时被遗弃的那些器物,以书桌上长了一张脸的被称为「古文老师」的妖怪为中心策划政变来颠覆人类,结果被人用尊胜陀罗尼咒语打败并被护法童子(《信贵山缘起》里也出现了)赶走,败北后都跟着数珠的付丧神「一莲上人」出家,为了成佛而热诚修行佛教去了。不知何故挺幽默的,被当作寓言收录到了佛教说话集里。
 話は変わって『百鬼夜行絵巻』はといえば、現在残っている最古の作品は、京都のお寺でかの『一休さん』のモデルとされる一休宗純が青年期を過ごしたという大徳寺の真珠庵に収蔵された室町時代・土佐光信作とされる重要文化財で、「真珠庵本」とも呼ばれています。そこには複数の鬼に追い立てられているような器物に手足の生えた妖怪たちが描かれているものの、物語的な因果はさして書かれておらず、妖怪たちの進む先に巨大な炎の円盤が現れ引き返す妖怪の姿で終わっています。「真珠庵本」には内容を示す「詞書(ことばがき)」もないため筋立てもはっきりとはわからないのですが、『今昔物語集』以来、付喪神に関する物語の多くに対抗手段として尊勝陀羅尼もまた取り上げられているため、この絵巻の最後に出てくる炎の円盤も尊勝陀羅尼によって生じたものと考えられています。陀羅尼とは、密教に用いられる一種の呪文で、短いものを「真言(マントラ)」、長いものは「陀羅尼(ダーラニー)」と呼ばれ、サンスクリット語によって宇宙の真理(の一部)が説かれたものを音写した語句とされます。「尊勝陀羅尼」はその内のひとつで真言宗や天台宗でも重用される、死の危険を回避し寿命を延ばすとされるものです。日本では宗派を問わず広く浸透していたようで、特に百鬼夜行に遭遇した時に唱えたり、陀羅尼の語句が記された護符などを持っていると助かると考えられていました。
  话说提起《百鬼夜行绘卷》,现存最古老的作品是在京都的寺庙,被《一休小和尚》当作原型的一休宗纯度过青年时期的大德寺的真珠庵里收藏着的,据说是室町时代:土佐光信写作的重要文化财产,也被称为「真珠庵本」的那个。虽然在看似被多个鬼驱赶着的器物上有画手脚,但没有写下能成为故事的前因后果,到了正在掉头的妖怪前方出现了一个巨大的火焰圆盘处就结束了。「真珠庵本」没有「题字」揭示内容所以情节是说不清楚的,但自《今昔物语集》以来,尊胜陀罗尼就多被作为对策用于有关付丧神的物语,所以这幅绘卷最后出现的火焰圆盘也被认为是尊胜陀罗尼造成的。所谓陀罗尼,是密教里用到的一种咒语,短的叫「真言」,长的叫「陀罗尼」,据说是将以梵语宣说的(部分)宇宙真理音译所得的语句。「尊胜陀罗尼」便是被真言宗和天台宗重用的其中之一,据说可以回避死亡的危险并延长寿命。在日本似乎不限宗派地广泛渗透着,特别是被认为在遭遇百鬼夜行时唱诵,或者拿着记有陀罗尼语句的护身符或别的什么就会有所助益。
 時代が移り変わり、道具類が豊かになっていくことで付喪神の概念が生まれ、それを妖怪として畏怖の対象とすることで初期の『付喪神記』や『百鬼夜行絵巻』は仏の功徳をわかりやすく伝える仏画として作られたのではないかと考えられます。多くの写しやバージョン違いがあるのも、各地の寺で説話を絵解きするために用いたのでしょう。『百鬼夜行絵巻』はその後江戸期に数多くのバリエーションが作られていきましたが、これは奇想天外な妖怪を数多く描く手法として純粋に楽しまれたエンターテイメント作品として発展していったものです。
  随着时代变迁,器具种类丰富起来后付丧神的概念诞生了,初期将其作为妖怪变成畏惧的对象的是《付丧神记》和《百鬼夜行绘卷》这样被认为是作为佛画为了易于理解地传播佛的功德而作的作品。即便有着众多的写本和版本差异,还是被各地寺庙用于图说说话了吧。在这之后的江户时期《百鬼夜行绘卷》是被用来创作出了大量的变种,但那些只是纯粹作为逗笑的娱乐作品来发展的因此用的手法是描画大量异想天开的妖怪。
付喪神は日本独自の妖怪?
付丧神是日本独有的妖怪?
 鬼や怨霊などが中国、引いてはインドにルーツを持った妖怪とされるのに対して、付喪神は日本独自に発展した妖怪とされることも多いのですが、中国に器物に霊が宿る古い物語があまり残っていないだけで、確証が得られた言説ではありません。八世紀といえば、中国は唐の時代で、日本は遣唐使などを通じてさまざまな中国文化を取り入れていました。唐代の中国は、魯迅が『唐宋伝奇集』をまとめていますが、創作された物語を楽しむ文化が広がり発展していた時期で、神仙や天女、妖怪の類が登場する物語も好まれていました。『唐宋伝奇集』には「古鏡記」という物語も収録されているのですが、これは人間の嘘や隠し事を見抜く力がある「鏡」自体を主人公とし、古代中国の伝説にある「黄帝」が作った十五の鏡のひとつとしています。閻魔大王が死者を裁く際に使う浄玻璃鏡や、『西遊記』などに登場する照魔鏡を連想させる魔法的なアイテムですが、同時にアマテラスの宿る八咫鏡をも思い起こさせます。九十九弁々や八橋の元になった。琵琶牧々や琴古主といった付喪神を数多く描いている鳥山石燕は、照魔鏡を付喪神「雲外鏡」として『百器徒然袋』に収録しています。これは一例に過ぎませんが、中国や韓国にルーツのある付喪神は、意外とたくさんあったりするのかもしれません。
  相对于鬼和怨灵这些,被认为源于中国乃至印度的妖怪,付丧神多被认为是日本独自发展出的妖怪,但中国只是没怎么留下说器物中宿有灵的古老物语,所以没有能得到确证的理论。说到八世纪,中国是唐代,日本通过遣唐使等方式取来了各种各样的中国文化。虽然,鲁迅也拿唐代的中国编写了《唐宋传奇集》,但那本就是个享受创作出来的故事的文化广泛发展的时期,有神仙、天女和妖怪之流登场的故事自然也受到喜爱。 《唐宋传奇集》收录了「古镜记」这篇故事,但其主角就是一面能看破人类的谎言和欺瞒的「镜子」,是由古代中国传说中的「黄帝」制作的十五面镜子之一。这是能让人联想到阎魔大王裁判死者时用的净玻璃镜,以及和在《西游记》等作品中登场的照魔镜的魔法器具,但我同时还想起了天照所宿的八咫镜。想到了九十九弁弁和八桥的原型。描绘了琵琶牧牧和琴古主等众多付丧神的鸟山石燕,将照魔镜作为付丧神「云外镜」收录进了《百器徒然袋》。这只是一个例子而已,但源于中国和韩国的付丧神,可能出乎意料地有很多。
塩田信之
盐田信之
 神話・伝説好きなゲーム・アニメ中心のフリーライター。現在はスマホゲームのシナリオ等を手掛けることも多い。2019年『いかにしてアーサー王は日本で受容されサブカルチャー界に君臨したか』(みずき書林)にも寄稿している。
  爱好神话、传说,以游戏、动漫为中心活动的自由作家。现在还多有执笔手机游戏剧本等活动。2019年还在为《亚瑟王是如何在日本被接受并君临亚文化世界的》(Mizuki Shorin)写稿。